熊本市の健軍商店街ピアクレスのオフィシャルページです。健軍商店街はロアッソ熊本を応援しています。

健軍商店街の歴史

健軍地区の歴史を振り返るときに忘れてならないのが、三菱重工熊本航空機製作所の存在です。
太平洋戦争開戦の年、昭和16年に三菱重工業株式会社が航空機増産のために、健軍に航空機製作所建設を決定し、昭和19年に1号機が完成して工場が稼動を始めました。
しかし戦局の悪化のため十分な業績が上がらないまま終戦を迎えてしまいます。

現在の商店街の立地は当時の三菱の社宅寮を縦断する道路に面しています。
なお、「健軍」という地名はこの三菱の工場建設よりさらに以前からの地名で、「たけみや」とも呼んでいたそうです。





終戦を迎え、航空機製作所で作られ、残っていた飛行機(主に「飛龍」と呼ばれる爆撃機)は進駐軍の手で破壊されてしまいました。
広大な工場の敷地は分割され、陸上自衛隊西部方面総監部や自治体の施設、学校などに変わっていきます。

終戦後、健軍商店街(当時はまだ商店街と呼べるものではありませんでした)には少しずつ商店が出来ていきます。
特に昭和28年6月26日の白川大水害により被害を受けた人たちが、水害の被害を受けにくい東部地区に移り住むようになり、
小規模な商店街としての形が出来てきました。
下、左の写真は昭和29年頃の健軍電停付近。右は昭和34年頃の商店街中央付近です。

商店街としての歩み

昭和32年にはニコニコ堂の前身の銀栄会(スーパー)が開店、昭和34年には木製アーケードを造り、商店街としての形と賑わいが出てきました。
下の写真は昭和36年頃、商店街中央付近の写真です。昭和30年代から40年代にかけて、健軍商店街は力をつけていきます。

昭和40年にはスーパー「かめ屋」(240坪)が開店し、商店街としての集客力が強くなってきます。かめ屋は昭和45年に大洋ショッピングセンターに移譲され、さらに50年には「マルショク」に変わっていきます。
また同じ頃スーパー、ニコニコ堂も大いに賑わいを見せるようになりました。こうして商店街にも活気があふれ、夏祭りのイベントなど沢山の集客を集めるようになります。

写真は昭和49年の夏まつりのもようです。
商店街中央にやぐらが建てられ盛大に行われています。舞台中央に寝転んでいるのは、ばってん荒川さん。
この頃商店街の有志による第1回健軍桜まつりも始まっています。
健軍商店街の集客力が全盛の頃でした。

その後、周辺に広い駐車場を備えたスーパーが次々に出店。
健軍商店街の集客力も少しずつかげりが見えてきます。
また、昭和50年代後半には通学、通勤の自転車駐輪が商店街にあふれ、問題となります。
商店街としてもこのような問題に対しては色々な対策を取っていきます。

健軍商店街「ピアクレス」の誕生

自転車問題に頭を悩ませていた商店街の解決策として、念願であった市営自転車駐輪場の開設が出来ました。
さらに平成4年には全蓋型アーケードが完成。この時に愛称をピアクレスと名づけました。

アーケード完成後、商店街は様々なイベントや企画を立ち上げてきました。
ぴあスタンプの実施や輸入品フェアーの開催、ミニFM局であるピアクレススタジオの開設。タクシーを利用した宅配システムの構築など工夫をこらした運営を行っています。
また、地域とのつながりも強化してきました。秋の健軍文化交流フェスティバルには泉ヶ丘校区自治会の子供みこしの参加など周辺校区との連携も大切にし、昭和50年頃から続く健軍桜まつりにも、市電通りの商店街である健軍商栄会とも協力をとりながら
毎年恒例行事として主催し、地域の住民の交流の場を提供しています。

さらに、平成18年にはぴあスタンプから発展させた健軍カードの発行。県下特産物の販売所である「まちの駅」のオープン。
腕自慢の一般の方が自分の料理やお菓子を販売できる「ピアクレスキッチン」の開設など現在でも多くの企画やイベントを手がけて地域の住民やお客様に対してのサービス向上を目指しています。